偉大な野球人、野村克也氏が亡くなりました。この記事は、野球界からの野村克也氏への声と、愛妻家だった野村克也についてまとめました。
王貞治氏
ノムさんは頭の野球をしていたね。我々は感覚だったが、ノムさんは感覚プラス頭脳があった。だから選手としても監督としても成功したのでしょう。
ほぉ、ミスタージャイアンツの長嶋茂雄氏は、誰がなんと言おうと感覚の野球で、「頭の野球」なんていうやつがいたら、鼻で笑われる・・・けど王貞治氏も「感覚だったとは少し驚きでした。
ロッテ吉井理人(よしいまさと)コーチ
1995年に近鉄からヤクルトにトレードされた吉井は、野村監督に大きな影響を受けました。
「近鉄時代は何も考えずに投げていた、野村監督のID野球(野球のプレーを経験や勘に頼るのでなく、データを駆使して行う戦術、ID=Inportant Data)に触れて、考えること、事前に準備することが大切と学んだ」
ID野球を提唱したのもヤクルト監督野村でした。
また、「(野村監督は)言葉は厳しいが選手のことを凄く大事に思ってくれる起用だった。(自身も)コーチになって参考にしている。」
「選手がやることを尊重する、理由あってやっていることをしっかり認めてあげる、ということ。指導者としても大事にしています」
福本豊
「ノムさんが捕手の時、”走るのか”とボソボソとつぶやく、”さあ、行くぞ”と集中しようとしてる時に間を外された」
「自分の盗塁を阻むために、投手にクイックモーションを指導した、おかげで自分も盗塁技術を向上できた。」
敵チームの福本豊氏をも指導した・・・、と言っても過言じゃないと思います。
江本孟紀
「野村さんの選手指導や再生方法は、特別なものじゃない。会話の内容で気分的に盛り上げてくれる。」
三人の話を聞いて、仕事上の上司とか、学校の先生、もっと言うと親の立場で身につけたいことだと思いませんか?
やる気を引き出す、ここに野村克也の指導が集中していたように思えます。
非常に頭が良くて、なおかつ優しい人だったんだなと推測できますね。
愛妻家、野村克也
- 野村克也:1935年6月29日生まれ、
- 野村沙知代:1932年3月26日生まれ
3歳差の姉さん女房だったのですね。
愛する沙知代夫人は2017年12月に先立ちます。
野村氏は、1000人集まったお別れの会で「私が窮地に立ったときも常に前向きで“大丈夫よ”の一言で救ってくれた。一言、ありがとうと言いたい。いい奥さんでした」
と奥さんの死を悼みました。
その時にこうも話しています。
「俺が死んだら、こんなに集まるかな」
これは、盛大に集まってあげて欲しいですね。
まとめ
野村克也氏の死去に際して、野球会からの声、王貞治、吉井理人、福本豊、江本孟紀(えもとたけのり)の声を集めました。
野村氏の存在感を知ることができると思います。愛妻家だった野村氏の一面も紹介しました。
野村克也氏、選手成績と監督成績、名言と残したエピソードとはの記事もどうぞ。
最後までお読みいただきありがとうございました。